それはおかしなことに、この上なく幸福な日々だった。


庭のささやかな紅葉が西日にいっそう赤い。
そろそろ冷えるから雨戸を閉めなければと思いながら、
そうして縁側に出ているだろう人のことも一緒に思った。
昨晩咳が多く出たため今日一日は外出を禁じた。
朝にはけろりとしたものだったから、今頃は退屈でたまらないだろうと思う。
寝ていてください。と、言ったときの、あのしかめ面を思い出すといつも可笑しいが、
その時は張り詰めていた何かがギリギリまでせり上がってきたような、
怒りとも恐怖ともつかない気持ちだった。
昨晩咳を聞きつけ飛び起きてから小さな細波のように心を揺らしていたそれは、
眠りを妨げ、朝日を浴びても溶けず、ずっと身体の奥のほうにあり続けた。
我慢していたというのに、彼の子供のような明け広げな顔を見たとたん、音も無くそれは溢れた。
胃の底が冷たくなるような思いをしたのだと。短く叫んだ声に自分で慄いた。
慄きは連鎖になって内から外へ。手足が冷え、言葉を作ろうとする口に力が入らない。
喉が意思とは関係の無い音を作り出そうとするのに慌て、必死で息を止めた。
「かみやさん?」
強張った背中に、暖かな手が触れた。
恐る恐る、どの程度力を込めて良いのかわからないというようなぎこちなさで擦られる。
「ごめんなさい」
謝られることじゃない。それは違う。病は彼のせいではないし、ここにいるのも自分の意志で、
閉じ込められるのを嫌う彼を、薬を嫌がる彼を、その時もいつものように笑って叱れるはずだったのに。
きっと眠れなかったからだと、自分に言い訳をした。いかにも女子のような不安定さが厭わしい。
優しく優しく。穏やかで暖かで、いつもまどろんでいられるような、そんな日々を彼に上げたかった。
「私より、あなたの方が死にそうじゃないですか」
本気で心配そうな目に覗き込まれる。痩せてきた頬。
顔色が悪いですよ。と、まるであの頃と同じ口調。
この優しさで、何度も遠ざけられた。笑顔で、暖かな声で、自分の傍にいてはいけないと。
仲間達と過ごした屯所でも、このこじんまりとした庭のある家でも。何度も。
ああ、またこうして離されるのだと、渦巻く心に絶望が落ちてくる。
意地を張れた昔の心はどこへ行ったのだろう。
嫌です、と。離れません、と。あんなにたくさん言えたのに。
今このときに力が沸いてこない。ただ黙して拒絶を示すのが精一杯で。
突き放されてしまったら、もう起き上がれない気がした。
けれど、続いた彼の言葉は予想外だった。
「…ね、神谷さん。何か甘いもの食べたいですね。
 くすりも飲みますし、きちんと大人しくしますから。」
五つも年上の人なのに、細められた目があどけない。
「ちょっと贅沢に薯蕷饅頭とか。明日にでも行きませんか?」
背中に置かれたままの手。ゆるゆると顔を上げた。
「…お傍にいても、いいんですか」
まるで見当違いな答えをしたのに、彼は驚いた顔を見せなかった。
顔に顔を近寄せられる。涙の膜が張った視界に、優しい目の色がにじむ。
目の奥に、確かにまだ湧き出し続ける水のような命の流れを感じた。
生きている。血が通って、触れ合うほどに近い息が暖かい。
尊く、いとしい。なくせない。
「どこにもやりませんよ」
彼の口からはじめて聞く言葉だった。


京の町を仲間と共に駆けたあの日々とは違うけれど、それでも毎日は鮮やかだった。
たびたび眩暈のようにほの暗い「終わり」を感じながら、
穏やかに微笑んでいられる時間と、病に疲弊し怯える時間を繰り返した。
それは、おかしなことにこの上なく幸福な日々だった。
私は彼を守る。戦いに向かい彼が一番孤独なときに、私は必ず傍らに立つ。
背に通る一本の冴えた刀身のような心はあり続けた。












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