セイは救急箱を手に、夢中で走っていた。
空は曇天。こもった熱と湿気は、容赦なく人の体力を奪う。
すぐにセイの額にも汗が浮かび、頬を滑り落ちていった。
それでも走る、走る、走る。
嫌な予感がするのだ。こんなに汗をかいているというのに、
心臓の鼓動と同じリズムで、背筋に悪寒が走る。
道場前、屋外に作られたコンクリートの水飲み場に、黒い胴着の数人が固まっている。
中の一人が気がついてこちらに手を振った。
「神谷!こっちだ急いでくれ!」
どくり。不整脈と耐え難い緊張。
セイは見た。彼らの足元に力なく横たわる顔を。


ほたり。と、暖かな雫がまぶたに当たり、それがこめかみの方へ流れていく感覚。
自分の涙のようだと総司は夢うつつに思った。
目を閉じたままでもわかる。あのこが泣いているのだ。
泣きながら、呼んでいる。懐かしさがこみあげた。
「…神谷さん」
「はい」
呼べばすぐに返る声。そう、いつもいつもいつも。
「どうして残ってしまったんですか、あなたは」
声は、落胆とも安堵ともつかない響きになった。
すっかり痩せてしまった手で頬にふれる。
指の背で眦をそっと撫でると、彼女は目を閉じ顔を傾けた。
「どうして、私なんかの側に…」
せめて慈しみをこめて触れる。これが最後だと思いながら。
彼女は閉じていた目を開いた。
予想に反してもうそこに新たな涙はなく、ただ強く美しい光がある。
彼女は優しく笑んでいた。
「いつも馬鹿みたいに元気な人が臥せっているのに、放って置けるわけがないじゃないですか」
まもらせてください。声なく唇が言葉を作る。
あなたの剣となり、盾となると。
あなたが孤独に戦うとき、必ず側にいると。
「私の誠は、ここにあるんです」
恐ろしいほどの喜びに胸が震えた。
同じ母から生まれたきょうだいの子犬のようにじゃれ合って過ごした頃から、
思えばずっと、彼女が可愛かった。愛しかった。焦がれていた。
今度こそは手をとって、握り締めていて良いのだろうか。
ずっと、彼女を、そばに…

「ちょ、ちょっと、お、沖田せん…っ」
ばっちん。
頬に衝撃と痛み。
「先輩!寝ぼけるのもいい加減にしてください!」
全身水浸し、がんがんと痛む頭で揺れる総司の視界に
真っ先に飛び込んできたのは、剣道部の紅一点で、マネージャーでもあり、
密かに見込みありと考えている後輩で、密かにこのところ一番気になる後輩の、
神谷セイのつり上がった目だった。
「…般若」
「だれが般若ですか!」
べっちん。
今度は額に衝撃と痛み。
うん。なかなかに柔軟な攻撃。
くらくらとする頭を振って身体を起こそうとすると、
セイの腕が伸びてきてやんわり押し戻された。
「あの、私は一体?」
「倒れたんですよ」
ちょっとの間でしたけど。そう言うセイの表情が硬い。
その顔を下から眺めながら、総司は目をしばたいた。
そういえば、すごい暑さだったのだ。
さっきまで道場で剣道部の鍛錬をしていたはずである。が、
急に目の前が歪んだと思ったら、次の瞬間ここにいた。道場外の水飲み場だ。
ここは日陰になっている分、風が通ると涼しい。
いや、通る風も何も今日は微風だ。心地よい柔らかな風は
セイがうちわでこちらに送ってくれていた。
「気分は、悪くないですか」
そばにあった薬缶から、コップに薄めたスポーツドリンクが注がれる。
セイと総司は自他共に認める夫婦漫才、否、犬猿の仲であるが、
セイはそれでも部のマネージャー業も請け負っているのである。急病人に対する処置は適切で丁寧だ。
額やわきの下には濡れタオル、頭の下に簡易氷枕。
憎まれ口をたたきあうのが常であるセイに、こまごまとした世話をかけてしまったのかと思うと
なにやらやたらと面映い気がして、総司は目を逸らす。
手に先ほどの夢の名残がぼんやりと残っていた。
酷い暑さにあてられて倒れたのも初めてだが、あんな夢も初めてだ。
名前も顔もすでに思い出せない、おぼろげにな夢の中の「彼女」のおもかげと、
いまここにいるセイの空気が、なぜだか同じもののように感じて仕方がない。
「(あれは夢だし、神谷さんと彼女は違う人だ)」
ぎゅっと強く目を瞑った。だいたい、夢の中の自分は「彼女」に恋焦がれてはいなかったか?
触れた指がじんとするほど、甘く苦しい気持ちを確かに自分は感じたのだ。
それを、今この神谷セイに?ありえない。
確かに気にかけている後輩ではあるが、それはセイがよく気配りのできる感心な子だからとか、
剣道への真剣な打ち込み方だとか、打てば響くような軽快なやり取りが楽しいからだとか、
セイが、どこぞの「先生」を思って夢うつつにも泣く姿を見てしまったからで…
「沖田先輩?…やっぱり気分悪いですかっ?」
「え?」
目を硬く閉じて眉間にしわを寄せ、黙り込んだ総司を前に、セイが慌てたような声をあげた。
勘違いをされて仕方がない態度をとっていたのは自分だが、
普段からきりりとした印象が強いセイのめずらしい姿に総司は一瞬呆然となる。
明らかに顔を青くした彼女はオタオタと膝を浮かせた。
「や、やっぱり救急車を…っ」
「えっ、いえ、大丈夫です大丈夫ですっ!神谷さんっ!」
立ち上がりかけたセイの手をがっしと掴む。
「で、でも、熱射病ですよ死んじゃう人だっているんですよ」
信じられないことに、セイの手が震えていた。こちらを見る目が赤い。
セイの手を強く握りこんで、目をしっかりと合わせて、総司は笑って見せた。
「ちょっと酷くのぼせただけです。気持ちが悪いとかそういうのは全然ないです。
 神谷さんが看てくれたおかげですよ。大丈夫ですから、ね、落ち着いて」
「……」
気が抜けたように、すとんとセイがへたり込む。
長い髪の間から見える目が、涙で煌いていた。
「…でも後でちゃんと病院に行って下さい」
「うん…はい、そうします」
手の中のセイの手は小さい。骨も細いように感じる。
握りつぶしてしまえそうだという心もとなさを誤魔化すように、
総司はセイの顔を覗き込んでいつもの意地の悪い笑顔を浮かべた。
「神谷さん、そんなに心配した??」
案の定、セイはあのキッと強い目を向けて、いつものように憎まれ口を…
「しました」
「え」
滑らかな頬が目の前で色づいていく様子に総司は目を奪われる。
目を開けない自分を見て、このまま死んでしまうのではないかと、
そう思ったのだとセイは言った。
「いつも馬鹿みたいに元気な人が、倒れるとかそういうのやめてください」
どこかで言われた覚えのあるような言葉だと思いながら、
総司は未だ振りほどかれもせず握り締めたままの小さな手を意識のどこかで感じていた。
離したくない。と。
その気持ちは初めてのはずなのに、懐かしいもののようだった。









総司のターン。初過去夢を見る&総司の自覚編。
セイちゃんは夢の中の総司のトラウマがあるので、
倒れられたり咳き込まれたりすると怯えます。
熱中症は、ほんと危ないので、実際は意識が無い時点で救急車呼んでください;
真冬に猛暑のお話でした。
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